自分のためにならないような努力はやめた方がいいわ
宇多田ヒカル PINK BLOOD
最近生きるのが楽になった。精神的な自由を感じるようになった。環境は前回の投稿時と変わっていない。留学生として勉強している。けれども以前と比べて笑顔が増えたし明るくなった。何よりも”友達”って呼んでいいかなって思える仲間を見つけられた。身軽で生活と心に余裕が感じられるようになった。「明るい」という日本語には、「軽い」という言葉が含まれているのには関係がある気がするな、なんて思う。
なんで楽になったのだろうって考えると、大きく分けて二つあると思う。
一つは、完璧主義を手放したこと。よく言われることだけれどね、0/100思考を捨てて脅迫的に完璧であることを諦めた。見栄を張ることもやめた。これまでは自分の無価値観にいつも不安だから、付加価値を与えてくれるもの… HDの成績や100%のマーク、先生からのポジティブなフィードバックなど、数え出したらキリがない、を脅迫的に求めていた。(99を取った時には自分を責めて100以外には価値がないのだと思い込んでいた。)あらゆる努力の原動力は欠乏動機で、足りない自分、不安定でお粗末な自分を埋めてくれるもの、価値を与えてくれる何かが欲しくて渇いていた。そして何より認められたかった。けれども、そもそも「完璧」ってなんだろう。完璧な状態なんて存在するのだろうか。満たされない心のままでは、いつまでも渇いたまま。だから、逆説的だけれど「足るを知ること」でしか「完璧」に近い状態にはなれないのではないかって思う。でもさ、結局、私は「完璧」でなくとも、完璧でないこの私が完全なんだなって感じるんだよね。そう思えたら、成長に対する考え方も変わってくる。
もう一つは、将来設計が明確になったこと。それは、身の丈にあった選択、自分にとって大切な物事に集中するようになって、社会、また、私でない誰かにとっては重要な価値観であっても、自分の価値観や自分の現実にそぐわない事には執着しなくなった。簡単に言うと取捨選択の技術が上達した。現状認識、自己の客観視が上手くなって、過剰評価でも過小評価でもなく、ニュートラルな現状認識ができるようになった。自分に合っている仕事や適性のあること、将来のワークスタイル、例えばどこの国でどういう生活がしたいのか、何時間働いてどれくらいの収入があればいいのか、何に幸せを感じるのか。そういったことを冷静に、見栄を捨てた状態で考えると、目標設定に無理がなくなった。選択肢を無制限に拡大していくのではなく、むしろ選択を限定していくことで、逆説的に可能性が広がっていくことに気がついた。
つまるところ、私の選択は私の幸せにつながるものであればいいなって。最近オーディブルで聴いたクララさんの言葉が響いた。
「Healthyでeffortless」に生きる。
なんて物事をシンプルにしてくれる考え方だろうと思った。冒頭に引用した私の大好きな曲の一節(聴きながら頭の中でこの一節を呪文のように唱えながらよく登校する笑)と言おうとしてることは同じだと思う。社会のために、誰かのために、そして”価値のある人”にならなくては、そう思って肩肘張っていたけれども、無理があるから苦しくなって心が傷ついてしまうのならば、そんなeffortやめていい。自分を傷つける必要はないんだから。それにさ、あなたがHealthyでHappyでいることこそ、きっと誰かの幸せにつながるよ。
でもやっぱり俗物な私はこれからもきっとたくさん恥ずかしいこと経験して、悩んで迷って、その度にまた思い出して、少しずつ前に進んでくんだろうな。でもまあ、こういう生き方もありよな。